視座を変える
先日Facebookhttp://www.facebook.com/tanatiku)で、我が家が出している『うしうし新聞』について
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「今までは自分の伝えたいことばっかりでしたが、伝えたいことよりもお客様が知りたいことを提供しようと思い直しました!!」と書いた。

すると、「視座を変えることができるようになるのは私も一生のテーマです」とコメントをいただいた。

『視座を変える』

改めて考えると
とてもシンプルで奥深いことば。

この前、20年ぶりに手塚治虫の「ブッダ」を読んだ。
この話に中に「チッタ」という少年が出てきて、その子は自分の精神をあらゆる動物に同調(憑依)させることができる。

例えばおなかがすいた時には虎に憑依し、虎として獲物を狩り、空っぽになった自分の肉体まで持って帰ってくる。
そして再び人間に戻り、自分の食べる分だけ肉をとり、残りは虎に与える。

しかし、チッタが大人になった時、再び動物に憑依しようとしたが出来なくなっていた。。。

以前のチッタは動物たちを仲間だと(生命に人間と動物と言う境界線を敷いていない)思っていた。
しかし、大人になって目の前に現れた象を単なる「敵」として認識してしまったため、憑依(同調)出来なかった。
と、いうエピソード。

このチッタと言う人物が実在したのか、手塚治虫の作りだしたキャラクターなのかはどうでもいい。
ただ、虎の精神に同調(憑依)し、虎として動く。

これも「視座を変える」といえる。
と言うか究極の「視座を変える」だと思っている。

視座を変えるのスタートは想像。

「僕は絶対こう思う!」から
「でも、あの人だったら何考えているのかな?」
「あの人はどう見てているのかな」
っていう想像から始まる。

そしてその究極が僕は「チッタ」だと思っている。

「おいおい、鬱になっておかしくなったか?」と思わないでね。

実際この視座を変えるっていう事はシンプルだ。
「相手の視点になって考える」ってこと。

でも、それが完璧にできる人なんていない。
でも、それが本当に大切なことなんだ。
でも、それが本当に難しいんだ。

僕は牛飼いだ。
牛は話さない。
何を考えているのかなんてわからない。
「想像」するしかない。

牛飼いにとって牛は経済動物だから、『自分の思う通り』に受胎させて、発育させようとする。
でも「自分の思う牛」を育てられる人は、自分の能力(技術や知識)に加え、牛の事を毎日真剣に考えている。
牛のことを毎日真剣に考えると牛の「声」が聞こえる。
それを的確に聞き取り、的確に応える人が「いい牛」を育てるのだと思う。

自分の利益と言う自分視点から、牛を見続けることで初めて見れる「牛」視点。
視座を変えるという愛情。

僕がまだ牛飼いをする前、森脇畜産という牧場で2年間住み込みで研修をさせていただいた。
全国色んな研修先を探したが、なぜ森脇さんのところにお世話になったかというと、
有名な「但馬牛」の産地だから。。。。ではない。

奥さんがとてもいい笑顔で、とても優しそうだったからだ。
(あと、桜がきれいだったから)

「なんじゃそれ!!」って思うかもしれないが、僕はこの時の感覚を信じて正解だったと思っている。

結果的に僕は農業では最も難しいと言われる畜産の新規参入をすることができ、今年で10年経つ。

それ以上に、森脇畜産で見続けた奥さんの牛に対する対応。
それを間近で見続けられたことが大きい。
これが僕の牛飼いの理想になっている。

森脇さんの奥さんは最新の専門知識とかはほとんど知っていない。
外に出て情報収集等もしない。

「なぜ、この時期にこの種類の餌をやっているのですか?」
と聞いても、「良くわからない」という。

でも、親子合わせて160頭近い牛の状態を(当時は個体識別番号の耳標のない時期)全部把握していた。
だから牛のちょっとした変化にもすぐに気がつく。
これは今になっても凄いことだと思う。
10年たって今の自分を見てみるが、とても及ばない。。。
学校の先生だって160人の生徒ひとりひとりの体調を毎日毎日把握できないだろう。

でも、奥さんはそこで働く誰よりも毎日毎日「それぞれ1頭1頭の牛」に近かった。

牛飼いは言葉を話さない牛が相手だからこそ、いかに牛の視座に変えれるかだと思っている。
色んな技術はおまけだ。


全ての生き物は繋がっていて、、、
だからこそ、「視座を変える」ということが必要になってくるのだと思う。

商売でも、牛飼いでも、夫婦関係でも、親子関係でも。すれ違う人でさえ。。。


実体験でもそう感じることがある。

我が家の子牛は100%人工保育で、全ての子牛のミルクを哺乳瓶で与える。
この仕事で一番大変なのが「最初にミルクを飲ます時」だ。
子牛からしてみれば、親と離され不安な上、よくわかんない「人間」が、よくわからないもの(哺乳瓶の乳首)を口に入れてくる。
出てくるミルクはお母さんのとは違う味。。。

「怖い。嫌だ。」
と、思って当然。

最初のミルクを与える時、僕は乳首の種類を変えたり、入れる角度、深さ、顎の固定角度などなど色々その牛にあった方法を探る。
飲む牛は簡単に「スッ」と飲むが、飲まない牛はとことん嫌がる。

僕の視点が自分にある時、それは「ミルクをしっかり飲まして発育の良い子牛を育てたい!そして高く売りたい!」という思いがある。
飲んでくれないと「このままじゃプログラム通りいかない、何で飲んでくれないんだ!」
という焦りも生まれる。

でも、焦れば焦るほど子牛は絶対にミルクを飲まない。
不思議なもんで急いでいる時に限って、いつも飲む牛であっても飲まないもんなんだ。

何百頭の子牛に哺乳してきて僕が分かったこと。

それは、子牛がミルクを飲む瞬間、僕はなにも考えていないっていうことなんだ。

「どうやったら飲んでくれるだろうか?」この問いを何百回毎回毎回牛に問い、
哺乳瓶の乳首を嫌がる牛に「どうしたら、どうしたら、どうしたら、どうしたら・・・」と問い続け、
自分の体を動かし続けているうちに、「フッ」と急に子牛が猛烈にミルクを飲みだす瞬間が来る。

その時に「フッ」と我にかえる。
その瞬間は「子牛を高く売りたいなんて思考は一切ない」
ただただ純粋に子牛が何を求めているのかを感覚で探り、無意識のうちに子牛と同化している。

だから僕はこの最初のミルクを飲ます瞬間が、とても負担だし、一番充実感を感じる。

視座を変えることは、想像することから始まり、どこまで寄り添えるか。
それは、ある程度までは自我で進めるが、結局最終的には愛にいきつくんだと思う。

商売だってそうだ。
お金と商品のやり取りは気持ちと気持ちのやり取りだ。
だからどこまでも行ける。

お肉の販売にしたって「お客さん」を相手にしていない。
去年買っていただいた税理士のOさん。
同じ牛飼いのWさん。
岩手の獣医師Kさん。
主婦のMさん。
ずっと応援してくれているOさん。
鹿児島のMさん。
北海道のYさん。
挙げればきりがないけど、初めてお会いする方や今までからお付き合いがある方色々。
一人一人違う人。
だからお肉に添える手紙にしても一人一人違って当然。
ひとくくりに「お客さん」じゃないんだ。

一人一人が僕との間にエピソードがある。
当たり前のこと。
それが、お金が絡み「お客さん」とまとめると、一気に「変える視座」のイメージがぼやける。

一人一人、1頭1頭。
関わりあっていけばどこまでも進める気がする。

まぁ僕自身、自分がパソコンに触っている時間は大事にして、
嫁さんが楽しそうにパソコン触っていると「おい、早く終われよ~!」って思っちゃう。
小さい男なんで偉そうに言えないんだけど。。。(笑)

でも、どこもでもいけるよ。

視座を変えるはどこまで相手を思えるか。

簡単そうで簡単ではない。
甘えが出る。
近しい人に程、依存心が顔を出す。

だけど、本当に大事なことなんだ。
ちょっと掴みかけてきた。

同じ間違いをおかすかもしれないけど、僕も一生「視座を変える」ことを意識して生きていこうと思う。

もちろん、自分が基準。
相手も自分が基準。

だからこそなんだ。

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Top▲ | by beefcattle | 2012-02-15 16:35
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